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緑茶の効果!



緑茶




 ただいま新型コロナウィルスが世界中に蔓延し、人々は「コロナ・コロナ」でもがき苦しんでいる最中にあります。

 そして政府は訳のわからない筋の通らない施策を実行中。

 だから、右を向いても、左を見ても、どこを向いてもコロナウィルス蔓延中!何から何まで真っ暗闇、これでは「若者たちに夢や希望を語れ」と言っても語れる訳がありません。

 しかし、このまま手をこまねいていてはならないのです。

 老いも若きも積極的に自己防衛しなければウィルスと戦っても簡単にノックアウトされてしまいます。

 しかも自己防衛をやるからには積極的にやらなければダメなのです。

 外出中のマスク着用は当たり前として、帰宅後のうがい・手洗い、アルコール消毒などなど、日々の励行が大切…。「あっ、忘れた!」ということがあってはいけないのである。

 今やっておくべき一番重要なことは「体の免疫力を少しでも高めておく」ということなのだ。

 コロナウィルスが体内に侵入し感染・発症した場合、内蔵や血管の細胞がズタズタにやられてしまうそうです。

 侵入してきたウィルスに対し、なぜか免疫細胞が過剰反応を起こし暴走してしまうのが一因らしいのです。

 それゆえ回復したとしても予後が非常に悪いと言われている。

 新型コロナウィルスに対抗できる有効手段については、マスコミが日々取り上げているのだが決定打となるものはなく、やらないよりはマシという程度のものと認識している。

 しかし先般、これは特にコロナウィルスに有効ではなかろうか! というものがテレビで解説されていたので、以下に簡単に報告しておきます。

 それは「日本茶(緑茶)」なのです。特にお手頃な「煎茶」が良い。

 緑茶には色々な成分が含まれていて、タンニン・サポニン・カテキン・カフェイン・ビタミンCなどなど…、あるのですが、特に緑茶の「カテキン」とうい成分がウィルスに対抗する大変重要な物質となっているそうだ。

 緑茶に含有されている何種類かのカテキンのうちでも、最も重要な成分が「エピガロカテキンガレート」という長い名前を持つ成分なのだ。

 体内に侵入した「新型コロナウィルス」に真向から対抗して「やっつける」ということである。何とも頼もしい成分ではないだろうか。

 小生も緑茶大好き人間なので、やや濃いめに入れたお茶を習慣的に朝夕一杯ずつ嗜んでいる。

 緑茶習慣は日本人の特権であり、既に飲んでおられる方はもとより、習慣のない方々にも是非この機会にお勧めいたしたい。

 他にコロナウィルスに有効な手段として医学界で言われているのがビタミン類の摂取である。

 特に「ビタミンD」の摂取は新型コロナウィルス感染症に対して効果があると言われていますが、まだ有効かどうかの確認はされていないらしいのです。

 ただ、欧州20か国の報告よると、ビタミンD値の国民摂取量が大きいほど新型コロナウィルス感染症(Covid-19)に対する罹患率・死亡率が低いとの調査結果がでているとのことである。

 しかしビタミン類の摂取はウィルスばかりではなく、多方面にいろいろな役割を果たしていますから、毎日規則正しくバランス良く摂取したほうが絶対に良いのです。

 蛇足になりますが、免疫賦活の最強手段は何といっても「春うこん(100%)」ではないでしょうか。

 病気の種類や症状によって、一日の「うこん摂取量」が微妙に違ってくるのには、いまいち神経を使いますが…。

 小生も長年続けておりますが、風邪はもちろんのこと、これといった病状には未だお目に掛かっておりません。

 しかし粉末は大変苦いので、苦手な人には苦手でしょう。(顆粒もありますが…、)
 「良薬口に苦し!」と昔から言われていますので…。

 当方は価格も手ごろな粉末を定期的に購入し、オブラートに包んで毎日飲用しております。

 手前勝手なご紹介をさせて頂きましたが、「健康長寿」に格別な興味をもたれる皆様、ご奇特な諸兄様におかれましては是非ともお試し下さい。


 

「ラーメンライス」な食卓!


「ラーメンライス」な食卓!


 冬真っただ中にある今頃の季節、老体の身には非常に堪えるものがある。

 家にいても朝晩の寒気は容赦なくひしひしと骨身に染みわたってくるではないか。
 
 骨皮筋右衛門ほどではないが、体型がいつの間にか骨と皮しかないほどの細身になってしまった。

 数十年前だったら、筋骨隆々の体格を自負していたものだが、今はどの部位に触れても「肉や脂肪分」などと言うものが殆ど見当たらないのである。

 試しに自分の肩に手を置いてみると、皮膚の直下にごつごつとした骨を感じてしまう。筋肉も申しわけ程度に付いているぐらいなので、要するに骨と皮なのである。

 これでは家人に凝った肩を揉んでもらおうにも、触れたとたんに直ぐに分かってしまうので、恥ずかしいやら、情けないやらで頼めないではないか。

 企業戦士として辣腕を振るった(ほどではないが!)時代もあったが、リタイアー後の人生では運動らしい運動をして来なかっただけに、今になってつけが回ってきた感じである。 あぁ~!何と無情なことか…、。

 さて話は変わるが、お腹が空いてくると食べたくなるのがラーメンである。

 最寄りのお店から買ってくれば、季節に関係なくフルシーズン食べられる手軽さがあり、 即席の名のとおり時間をかけずにすぐ出来上がり、お腹を満たしてくれるところが素晴らしい。

 自慢にならないが、小生のブランチはほぼ毎日がこれの繰り返しなのだ。

 主食が「ご飯」と「ラーメン」、「副菜」「主菜」がなく炭水化物オンリーの食事になってしまうのは致し方のないところである。

 食べ方は決まっていて、「スープ・麺・ご飯」の感触を口の中で楽しみながら、ひたすらこの順番を繰り返していく。まさにラーメンライスの「醍醐味ここに有り!」なのである。

 生めん、カップ麺、袋入り即席麺など、いろいろ市販されているのだが、とにかく自分好みのものを買ってくる。

 カップ麺は言うまでもないが、鍋の場合だとお湯がグツグツ沸騰してから麺をいれ、添付の出汁を入れて「ハイ!お終い」式のラーメンになるのだが、ところがどっこい!それでは面白くない。

 ラーメンの美味しさの基本は出汁にある。どうしてもその美味を引き出だすためにはこだわりが必要なのである。

 調味料にひと工夫・二工夫を凝らし、味を引き立たせるための具材を入念に選別し、魚介類も加え試行錯誤を重ねているのだが、今いちどうしても「シャキッ」とした感覚が伝わってこないのだ。

 ラーメンが醸し出す「独特の香りと風味」というものが、出せていないし、況んや出せるはずもないのであるが…、う~ん、悔しい!

 ならばと、街の食堂を時々行脚して回るのだが、どのお店も「まあ旨い」と言える範疇で、どうしても自分好みの味ではないのだ。

 しかしここで安易な妥協をしてはいけない。一度や二度の失敗、いや何十回失敗を重ねようと諦めてしまっては元も子もなくなってしまうではないか。意を決して続けることにしたのである。 

 「継続は力なり」ではないが、もしかしたら努力の成果が「一瞬の閃き」として、すぐそこまでやってきているかも知れないのだ。

 「これが究極のラーメンだ!」という味を引き出すまで、辛抱強く「男のロマン?」を追求していこうと思っている。 

 「高がラーメン!」 されど「ラーメン!」 

 長いなが~い坂道を駆け上り、頂を極めようともがいている一人の人物が今ここにいるのである。

「弘法も木から落ちる」!?



 師走に入ったかと思ったらもう年の瀬である。

 時の経過のなんと早いことか。「光陰矢の如し」の感がぴったりくる今日この頃ではないか。

 ところで話は変わるが、日本には古来から「四字熟語」や「諺・格言」なるものがあるのだが、使い方によってはニュアンスが微妙に違ってくることがあり、これが大変面白いのだ。

 日本語には同じ意味合いで使われている諺が沢山あり、例えば、「弘法も筆の誤り」と「猿も木から落ちる」というのがある。 

 これは「優れた人物でも時には失敗する」という例えなのだが、仮にこの「猿も木から落ちる」という諺を会社で使ったとしよう。

 部下や年下に用いるならばともかく、うっかり会社の上司や先輩を前にして使ってしまったらどうなるだろうか。大変厄介なことになる。

 上司の性格にもよるだろうが、「不敬な輩!」「無礼千万な奴!」ということになり、場合によっては「降格人事」や「左遷」の憂き目にあってしまいかねないのだ。

 駄洒落のつもりが一転して、取り返しのつかない悲惨な結末に終わってしまうケースも考えられる。

 諺に限らず、「日本語の使い方・用い方」は上下関係、或いは公私に違わず細心の注意が必要なのである。

 少々硬い話になってしまったが、気分を変えてみよう。

 小生若かりし頃には、生徒達の間で「諺」をモジッテ遊ぶことが流行になっていた。

 国語の授業が全然つまらなかったので面白くしようと、ある生徒が時間中に突然周囲の仲間に切り出したのだ。

 「弘法も筆の誤り」や「猿も木から落ちる」では面白くもなんともないから、「弘法も木から落ちる」「猿も筆の誤り」でいこうぜと…。
 すると、ぜんぜん違和感なく理に適っているように思えてきたから不思議である。 

 諺の掛け合わせを擁護する訳ではないが、屁理屈を強引に通すと次のような意味合いになる。

 人間はもともと類人猿の時代から木登りが得意な動物でもあるし、猿の方はというと、昔の「日光猿軍団」ではないが、調教次第では筆使いが上達することだって可能なのである。

 下手をするとその辺の連中よりは数倍も達筆になれる可能性を秘めているかもしれないのだ、…と。

 毎日痛勤電車に揉まれ、会社では上司の顔色を伺いながら、「積極果敢に業務に取り組む」振りをする繰り返しでは面白くも何ともないではないか。

 ストレスが溜まりつづけ、肉体の老化を一層加速させていくことになる。

 「脳細胞を活性化」する上でも、定期的に「発想の転換」を取り入れることが大切なのだ。

 諸兄も、脳細胞活性化の一助として「ウィットに富む会話」を構築して、周囲を和ませてみては如何だろうか。

「あぁ~! 我が青春の1ページ」!!


 
「歳月人を待たず!」(時は人の都合など待ってくれない。)

 この諺は我が世代にとってはとても辛辣な響きを呈している言葉である。

 限りある人間の寿命からして、とくに齢を積み重ねてきた者にとっては無常な響きとなって心の中にこだましてくるのではないだろうか。

 我われロートル世代においては(といっても私個人のことであるが…、)「昔むかし…、」で始まる「古き良き時代」に心がどうしても回帰してしまう傾向が強いようである。(心理学では「良形視の作用」の働きといっている)

 小生もしかり、戦後の混乱がまだ尾を引いている昭和20年代前半に産声を上げた「団塊の世代」と呼ばれる人類の一人であり、今では遥か遠い向こう側に行ってしまった感さえ否めない世代の人間なのである。
 
 社会の荒波に揉まれ「企業戦士」として辣腕を奮い、日本の経済成長の一翼を担ってきたと自負されている御仁もかなりおられるのではないだろうか。

 また当時(昭和30年代後半~)の日本といえば、舶来文化の影響をまともに受けていた時代でもあった。

 芸能面を見てみると、海外では「グループサウンズ」が全盛を極めており、「ザ・ビートルズ」、「ローリングストーンズ」「ベンチャーズ」など、そして国内では少し遅れて「ブルーコメッツ」や「スパイダーズ」「ザ・タイガーズ」などなどエレキ文化の花が満開、踊りでは「ゴーゴー」や「モンキーダンス」などが流行りだしていて、正に「日本中が舶来文化のるつぼ」と化していたと言っても過言ではなかったのである。

 相まって若者たちの間では、エレキギターを始め、フォークギターやクラシックギターなどの楽器が大いに持て囃され、国内でも一大潮流を形成していった。

 では早速タイムマシーンに乗り昭和40年代前半にワープして、当時の空気に浸ってみよう。

 関東平野のとあるキャンパスに降り立った。団塊世代の若者たちがグループで集まって交流を楽しんでいるようだ。

 将来の夢や希望を語り合っているのだろうか。 さらに近づいて観察していると、若者たちの真剣な眼差しや情熱がひしひしと伝わってくるではないか。
 
 当時の趣味・娯楽は人それぞれ「十人十色」であったが、手軽さからか、多くの学生がギターを所有しており「ポップス・歌謡曲・フォーク」など、それぞれ得意なジャンルの曲を思い思いにコピーして楽しんでいた時代でもあった。
 
 小生も「ギター」という楽器には当初から憧れを抱いていて早く入手したかったのだが、「音色の良い楽器」は例外なく高額でとても手が出せなかったし、かといって価格相応のそれなりの音色しか出ない楽器には興味も関心も全くなかったのである。

 長らくアルバイトをしながらコツコツ貯めたお金でようやく納得の楽器を購入し、難解な旋律の曲に取り組み初めていった。

 学内には趣味を一にする仲間が数人いて交流を重ねていたのであるが、ある時「ギター演奏」のことが話題に上ったのである。

 議論が白熱しだして「技巧や奏法」へと話が盛り上がり、とうとう「それぞれの腕前の披露」へと話がエスカレートしてしまった。
 
 仲間の一人が「課題曲」を提示し、その曲を「誰が最も早くマスターし、上手に弾けるかやってみようではないか」ということで話がまとまったのである。

 何日かして再び一同が会し、いよいよ課題曲である「禁じられた遊び」の主題歌(愛のロマンス)を披露することと相成った。

 曲を奏でる「手は強張り、顔は引きつり」で演奏中は皆必死の形相で、内心穏やかならざるものがあったのであるが、それでもスター気取りで何とか弾き終わり、互いが心の中で、「俺の腕に敵う者は居るまい」と有頂天になっていたのである。

 小生は一歩距離を置いて、高い見地から眺めていたのだが、蓋を開けてみて「ビックリ」、 いや「案の定」とでも言おうか。

 腕前のほうはと言うと、どれも皆「団栗の背比べ」であった。

 演奏テクニックに「キラリと光る」「滲み出る個性」などというものは、誰一人持ち合わせていなかったのである。 

 結論は…? と言えば、 アッ ハッ ハ~!
 
 やはり所詮は 素人、「同じ穴の狢」、 「目糞、鼻糞を笑う」の類であったのだ。 

 血気盛んなあの時代にはもう二度と戻れないのだが、しかし思いを馳せることはいつでも可能なのである。

 誰にも必ずやってくる青春、しかし二度と戻ることの出来ない青春…、う~ん…、

 でもしかし、青春時代って「本当にいいものですねぇ…!」

 

「こうなったら意地でも」!

「こうなったら意地でも」!

 日本語に「意地」という言葉がある。

 辞書によるとその意味は「気立て、根性」など、本来は良い意味に使われるべきものなのだが、「意地悪、意地っ張り、意地汚い、片意地」など、頭や尻に余分な語がくっついて形容詞や動詞になったとたんに悪い意味合いになってしまうのである。

 意地と言えば、誰にでも一つや二つ思い当たる節があると思うのだが、小生にもあるのだ。

 国語が好きだったこともあって、高校入学当初から「単語力・語彙力」を高め、人よりも少しでも抜きんでてやろうと悪心を抱いていたのである。

 そこで思いついたのが「国語辞典」の通読なのである。

 当時、国語辞典は「岩波・角川・三省堂」などが主流で、この三社でシェアの殆どをカバーしていたのだが、小生のものはマイナーな「講談社」であった。 

 このマイナーな辞書を購入するきっかけとなったのは、クラスに仲良くしている友達がいて、その彼が「とても引き易くて見やすい辞書があるよ」と言って見せてくれたのだ。

 寸借してパラパラめくり使用感を確かめたのだが、やはり「見やすく、引き易く、意味も分かりやすかった」ので、一ぺんに気に入ってしまったのである。

 購入した当初は物珍しさも手伝って、暫くの間は辞書を鞄に入れて毎日家と学校を往復していたのであるが、しかしいつも辞書が「真っ新」というのがどうにも気に入らなくなり、毎日のように色のついたポールペンで辞書の説明文を線でなぞっていくようになったのである。

 気が付いたら殆どのページが赤や青の線だらけのオールカラーになって、記述内容の判別ができなくなっていたのである。

 教科書・参考書も然り、色の線引きした箇所は覚えたつもりになって一人自己満足に浸っていたのであるが、これも「若気の至り」いや「変わり者」というところだろうか。

 酷使に堪えた辞書も半世紀を過ぎた今では装丁も脱落し、ページがバラバラの状態になってしまったのだが、創意工夫でかろうじて形状を維持させ体裁を保たせている。

 「こうなったら意地でも…!」というのが偽らざる心境なのだ。

 大げさではあるが、半世紀以上も人生を共にしてきたこの辞書は小生にとって片時も手放せない伴侶であり、「座右の書」としてもこの期に及んでますます愛着が増し加わってきている次第である。
  
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